当院は外国人の患者さんの割合も多く、前述の男の子のように外国からトランスファーされる患者さんもいますし、他院で治療中で、不安を感じてセカンドオピニオンを求める患者さんもいます。ヒポクラテスの誓いの一説に “Do no harm” (害を与えてはいけない)とありますが、これは治療ではなく、害ではないか?と思ってしまうことがあります。学ぶことが多いので一緒に見ていきましょう。

初診時11才2ヶ月の女の子。上下の歯列の横方向に拡大する装置が装着され、すでに拡大されいます。全部の歯を歯列の中に入れるのが目的と思いますが、咬み合せが不安定になっています。上の4前歯にブラケットとワイヤーが装着されていますが、曲がっているのを直そうとしているように見えます。一見良く並んでいるように見えますが、左上犬歯が萌出異常で、歯槽骨の中で萌出方向、萌出位置が大きくずれて、左上中切歯(顔の中心にある歯)の歯根の吸収を起こしています。その中切歯は抜歯が必要で将来インプラントにすると担当医から言われ、娘のために行なった治療で大きな害を与えてしまったことに母親は自分を責めて泣いていました。母親が前歯の並びを見て矯正治療が必要と思い受診させたと思います。歯の並びしか見ていない矯正治療(?)の典型的ケースです。

初診時の口腔内写真。上下の歯列の横方向に拡大する装置が装着され、すでに拡大されています。咬み合せが不安定になっています。前歯のゆがみを直すため歯列全体を拡大したのでしょう。ここで拡大しておけば将来抜歯をしないで済むかもしれないと言われたかもしれません。上の4前歯にブラケットとワイヤーが装着されています。

当院での初診時パノラマX線写真。左上犬歯が萌出異常で、歯槽骨の中で萌出方向、萌出位置が大きくずれて、左上中切歯(顔の中心にある)の歯根の吸収を起こしています。この写真を見て前の矯正医は愕然としたでしょう。

顎関節のCT画像を見ると下顎頭が関節窩に対して小さくなって変形しています。これも前医は見えていないのではと思います。関節窩も平坦に変形しており、前述の男の子の関節のようにS字状のカーブではありません。MRI検査をすると関節円板は前下方に変形して大きくずれて、開口しても復位しない非常に進行した円板転位の状態でした。資料がないので治療前の状態はわかりません。治療前にすでに円板転位は進行していた可能性もありますが、歯列を拡大して咬み合せが不安定になり悪化してしまった可能性も強いと思います。

当院での初診時の顎関節のCBCT像。下顎頭が関節窩に対して小さくなって変形しています。関節窩も平坦に変形しています。CBCT像からかなり進行した円板転位の可能性があります。

この症例の問題点は前医がこれから萌出してくる永久歯の成長具合と位置の異常に注意を払わず、安易に前歯の並びを直そうとした点と、顎関節の診査せず咬み合せを不安定にする歯列拡大を行なった点にあると私見ですが思います。

さてどうしましょう。円板転位は最も進行したステージ4で、もう元には戻りません。下顎の成長期ですがその成長は望めないことです。前の症例で下顎の正常な成長が歯の並び、その機能、又顔貌の向上にいかに重要かわかると思います。

左上中切歯の歯根は吸収しているので、抜歯は致し方ありません。そのあとどうするか?歯根を食べてしまった左上犬歯を中切歯の位置に誘導し萌出方向を変えます。その間顎関節の痛みや頭痛など諸症状があったので咬み合せを安定させるためにスプリントを装着する治療を歯の位置の誘導と同時に始めました。

左は抜歯後すぐの写真です。抜いた後に犬歯が見えています。中央は抜歯した中切歯、歯根はほとんど吸収されてありません。右のX線写真は犬歯を抜歯された中切歯の場所に誘導しています。ほぼ横向きだった犬歯は萌出方向を変えています。

犬歯が誘導され中切歯の位置に来て、同時に行なっていた咬み合せの安定させるスプリント治療も終了しました。永久歯の萌出状況はまだ乳歯は存在していますが、第2大臼歯の歯根の成長は1/2以上進み、ちょうどいい矯正治療の開始のタイミングです。

左上中切歯の位置にあるのは誘導された左上犬歯です。犬歯と中切歯では形態が違うのでコンポジットで形態をビルドアップという修復をしました。犬歯の形を反対側の中切歯と似せています。同時に行なった咬み合せの安定させる治療で顎関節の症状はそれ以上悪化することは防がれ、オープンバイトの状態で咬み合わせは安定しました。

上の写真は初診時11才1ヶ月、下の写真は12才5ヶ月、咬み合わせは安定して、ちょうどいい矯正治療開始のタイミングとなりました。この時点で歯の並びに入ります。両方とも口を閉じると口唇の周りの筋肉は緊張しています。咬み合せの安定後口の中の歯の咬み合せはオープンバイトになっているので鼻からオトガイの長さの下顔面高が長くなっています。顎関節は進んだ円板転位だったので、下あごの成長はほとんど起きていません。動物実験又臨床観察で円板がズレていると下顎の成長は抑制され、更にこの患者さんのように円板のズレが大きくなると下顎の成長はその時点で非常に抑制されます。Chinは後退した顔貌となります。

上下顎前歯の前突があり、口元が出ていましたので左上以外の小臼歯の抜歯を行い、歯並びと顔立ちを整えながら、抜歯スペースを下アゴの反時計回りの回転のメカニクスを用い、オトガイが前方に出てくる治療をしました。矯正が始まる前、顎関節(TMJ)の調整をして良い環境にしていますが前述の男の子のような下アゴの反時計回りの成長はありませんでした。女の子の10才から13才は本来成長期にありますが円板転位が大きく起きたこの症例では残念ながら全くありませんでした。下アゴの成長が顎関節の状態に影響を受けるのがこの症例でわかります。今回下アゴの成長が期待できないのを考慮して治療計画を立てました。限られた条件にあることを説明し治療を開始し、患者さんも状況を理解してくれて、協力度も高かったので、良い治療結果を得ることができました。

矯正終了時15才9ヶ月 口元の緊張感もなく顔立ちはすっきりしました。歯並びもきれいに整い、中切歯を失ったをのを挽回しました。

矯正装置はエッジワイズ装置(Straight Wire Appliance、以下SWA)を使用し、左上以外の小臼歯3本を抜歯、治療期間は2年11ヶ月、治療費は111万円(税別)でした。

  • 一般的に治療上のリスクとして、歯根吸収、歯髄壊死、カリエスの発生、歯肉退縮、顎関節症の発現、歯周病の悪化をよくあげていますが、本症例では顎関節症状況を改善しました。

上から初診時、矯正治療開始時と終了時の顎関節のCBCT画像の比較。下顎頭が関節窩に対して小さくなって変形しています。円板転位が非常に進行すると関節窩も平坦に変形しています。矯正治療中も咬み合せの安定に配慮し、下顎頭および関節窩の更なる変形は起こすことなく、下顎頭の形態は口の中の咬み合わせが顎関節と調和していることにより機能が改善し、丸みを帯びスムーズになりました。

本症例のまとめとしては、不安定にされた下アゴの成長は負の影響を受けることがこの症例でわかります。年令的に最も成長するべき時期に全く下アゴの成長が残念ながら起きませんでした。また矯正治療前の十分な診査の重要性も再認識しました。成長期には下アゴを強く打ったり、歯ぎしりが多く起きるので特に顎関節の状態をチェックしておくことが非常に大事です。正しく診断し、必要な時期に適切な治療をすべきです。前歯を並べることは後でも出来ます。この症例でも患者さんの協力を得られたことが成功の大きな助けとなりました。